小説とかの文章置き場

自創作ifルート軸の文章置き場としてとりあえず。取扱はBLメインです。

一章「天国になど辿り着けずとも」

 【北の楽園】。
 はるか北のどこかにある、獣人とヒトが種族を超えて仲良く生きられる秘密の場所。
 世間一般的には都市伝説として語られている。

 実際、北の大地に【楽園】はある。
 そういう名前の、とある医薬品開発グループとして。

 【楽園】はどこの国にも属さない、半ば治外法権の組織だ。
 古くからひっそりと薬の開発を続け、表には出てこず常に社会の影の部分に在り、医学の発展に貢献し続けてきた。
 かつて「ローカスト熱」という致死性の高い病のパンデミックが起こり世界中が大恐慌に陥った時、ワクチン及び治療薬を開発して皆を救ったのは誰あろう【楽園】である。
 その功績に見合う賞賛の声や褒美を、【楽園】は当時の各国首脳陣に求めなかった。それどころか、自分たちのおかげであることを世間一般の獣人たちに知られることすら求めなかった。
 求めたのはたった一つ。「今まで通り放っておいてくれ」——ただそれだけ。

 【楽園】の理念は世間に認められることではない。
 ただ淡々と、黙々と、新しい薬を開発して獣人社会に貢献すること。
 その薬の開発に、どんなに非道な手段を用いていたとしても。

 ワクチンは通常、鳥——獣人のように知的進化を遂げなかった一部が鳥類には存在する——の卵から精製される。
 しかしローカスト熱をはじめとする獣人にとって致死性の高いウィルスのいくつかは、不思議なことに鳥の卵の中ではまったく増殖しない。試行錯誤を繰り返すうち、やっと見つけた正解が「ヒト」だった。
 ヒトの身体の中では獣人同様に爆発的な増殖を見せるウィルスたちを見て、【楽園】の獣人たちは以前から抱いていたある懸念が真実かもしれないと沈痛な面持ちになる。
 いつからかヒト似獣人なるものが生まれるようになり、じわじわとその割合が増えていっているように。かつてヒトのあの姿が社会性動物としての進化の完成系かもしれないと言われていたように。

 動物から知的進化を遂げた獣人は身体の中身も外見も含め、ヒトへ近付いていっているのではないかと。

 以後【楽園】は積極的にヒトを研究し、飼育頭数を常に一定に保つよう繁殖させ、利用するようになる。
 いずれ自分たちが成る未来の姿かもしれない生態モデルとして。
 そして彼らを材料にワクチンや治療薬を開発し続け、変わらず獣人が支配する社会の維持に貢献するために。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 今はとある街の大病院で働くシロクマ獣人の医師ディラン・マイヤーズは、かつて【楽園】に属していた。
 この頃の名前はディラン・クラーク。
 両親はともに【楽園】に所属していたスタッフだったが、実験中の事故で早くに亡くなったため組織幹部の元で育てられた。ある程度の年齢になると自然とディランは【楽園】の中で仕事をするようになり、やがて適性を見出されて若くして医師となる。
 医師と言っても、【楽園】に所属するスタッフたちを専門に診ていたわけではない。どちらかといえば、その中で飼育されている——被験生物であるヒトの医師として、だった。

「この子たちが、あなたが主に担当するグループのヒトたちです」

 そう言って黒羊獣人のスタッフが開いた扉の向こう。それはそれは小さくて弱々しいヒトの子どもたちが十人ほど、無機質な床に座り込んでいた。
 誰もが不思議そうに大きなディランを見上げる中で、ひときわ目を引く金髪の美しいヒトの子どもが立ち上がる。

「ネラ先生。この方も、俺たちにお勉強を教えてくださる先生ですか?」

 あまりにも流暢に喋るその子にディランは最初、恐怖すら覚えた。
 個体差こそあるものの、ヒトは本来なら知能が高い。教えさえすれば獣人の喋りを真似るようになることは知っている。だが、目の前の子どもは「真似る」などという域ではなかった。
 言葉の意味も、その言葉を使う適切なタイミングも、何もかもを獣人同様に理解して喋っている。
 何より、ネラ——ディランを育ててくれた幹部の娘であり、ディランにとっては義妹にも等しいスタッフから「先生は先生でも、彼はお医者様よ」と返されたあと。

「じゃあ、ドクターとお呼びします。よろしくお願いしますね」

 そう言ってはにかんだヒトの子どもに、獣人との違いなど姿ひとつしかないように思えて。
 ヒトを——彼らを実験体はおろか材料にまでした薬の開発事業に身を投じていることが、だんだんディランは恐ろしくなっていった。

 果たして、これは正しいことなのか?

 一度でもそんなことを考えてしまえばもう、ディランの心はヒトの子どもたちへと傾いていくばかり。
 無邪気に懐いてくるヒトの子に、せめて彼らが置かれている辛い現実の慰めになればと様々なものを見せたり教えたりもした。

「ドクター、できました!」

 そしてここでもまた、例の美しいヒトの子ども——アダムは抜群の学習能力の高さと器用さを見せた。
 歌を教えれば一度でほぼ完全に音階やリズムや歌詞を覚え、電子機器の組み立てキットを与えればテキストやディランからの助言を参考にあっという間に完成させてしまう。そのうち、自己流で改良まで加えてしまう始末。
 ニコニコと満面の笑みで成果物を見せてくるアダムの頭を撫でてやりながら、凄いねと心の底から感嘆するしかなかった。
 すると、彼は照れ笑いしながらこう言うのだ。

「嬉しいです。こうしてできることが増えたら、俺はもっとドクターたちのお役に立てますか?」

 え、と間の抜けた声が出たディランを、透き通った海色の目が真正面から映す。

「俺たちヒトは獣人のお役に立つために生まれてきたんですよね? 実験のお仕事は、痛かったり辛かったりもするし……失敗してしまう子もいますけど。でも、優しくしてくれるドクターたちのために頑張りたいと思っています」

 喉の奥が焼けたように渇いて、ディランは何も返事ができなかった。
 そう思うように、この子たちは躾けられている。疑問すら抱けない。飛び抜けて賢いこの子ですらそうだ。生まれた時からここしか知らないのだから。
 ヒトがかつては知性高く世界を支配していた生き物だったこと。獣人の反逆で立場が逆転し、むしろより酷い立場になってしまっていること。中でもここに生まれてしまったがばかりに、医薬品開発の材料として搾取されていること。
 何もかも【楽園】の獣人たちの偽りの優しい笑顔で隠され、自分たちはそういう生き物だとしか思えていないのだ。

「俺がもっと色々覚えてネラ先生やドクターたちをお手伝いできるようになれば、実験以外でもお役に立てるかもしれないと思っていました。だから、ドクターが俺にたくさんいろんなことを教えてくれて本当に嬉しいんです」

 その健気で無垢な清い心に、何も報いがないこともアダムは知らない。
 強いて一つだけ報いがあると言うのなら、死んだあと。罪がなんたるかも知らない真っ白な魂のままで天国へ行ける。ただそれだけだ。
 だがそれは死を迎えることで辛い現実から逃れられるだけ。報いでもなんでもない。少なくとも、全てを知っているディランにはそう思えない。

「……ドクター?」

 黙ったまま震えるしかないディランに不安になったのか、アダムが眉尻を下げて一歩近付いてくる。小さな手が触れてきて、ただでさえ潤んでいた涙腺が崩壊した。

「ど、ドクター! どうしたんですか……?」

 いきなり大の大人が泣き出せば、びっくりするのは当たり前だ。
 慌ててディランに飛びついてきたアダムは、必死に手を伸ばして溢れる涙を拭ってくれようとした。そんな様もまるで獣人の「良い子」のようで、もう。

「僕には……君たちヒトと獣人の境目が分からない……!」

 慰めようとしてくれたアダムを抱き締めて、ディランは慟哭する。
 止めなければならないと頭では分かっていたのに、こんがらかったまとまりのない思考の端々が口から次々溢れ出す。

「本当なら、君たちがこんな辛い目に遭わなくたっていいはずなのに。こんな、こんな……天国へ行く以外逃げ場がないなんて。アダム、なのに……君は……可哀想にっ……!」
「……ドクター……?」

 突然のことに混乱し切ったアダムの声音に、ディランは返事できずにいた。
 ややあって、少しだけ頭が冷えてきた頃に彼の小さな身体をそっと離して。「すまない」と、ただ項垂れるしかなかった。
 不安そうにしながらもまっすぐディランを見上げていたアダムの瞳に、ほんの僅かな翳りが宿ったのはこの時からだろうか。それ以来、実験の末に同じグループの子どもたちが命を落としていくたびに翳りは広がっていった。

「ドクター。俺はまた、みんなみたいに死ねなかったんですか?」

 ヒトの子どもたちの中でも類稀な免疫力を持ち、どれだけ実験を受けようがワクチンの材料とされようが回復し生き残ってきたアダム。
 ある日、実験ののち昏睡から目が覚めた彼にディランはそう言われてしまった。
 あの時のディランの嘆きが心に刷り込まれてしまったのだろうか。天真爛漫で何も知らないことが唯一の救いでもあったかもしれない、そんなアダムを汚してしまったと咄嗟に思った。
 
 心臓を氷漬けにされたようなショックを覚えて涙を流すしかないディランを、アダムは「泣かないで」と我に返ったように慌てた顔で慰めてくれる。
 またそうやって、賢い彼は学んでしまう。「こんなことを言うとドクターを悲しませてしまう」——気を遣いすぎる獣人の子どものように。

 もう、耐えられない。
 これ以上は見ていられない。

 担当していたグループの中でアダムの次に長生きしていたヒトの少女が死亡した日、ディランはアダムを筆頭に残っている子どもたちを外へ逃すと決めた。
 たとえ一度少人数を逃したところで、この施設や世界がヒトを利用し続ける仕組みが変わるわけではないと知っていても。
 たとえ彼らが外の世界のことなど何ひとつ知らず、生き延びられるわけがないと頭の隅で理解していたとしても。
 それでも何もかもを隠されたまま、この施設の中で利用され続け、目の前で死んでいって欲しくはない。
 ただそれだけの浅はかで刹那的な激情で。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「おはようございます、ドクター」
「……うん」
「ジェッタ、まだ眠いのは分かるけれど朝の挨拶は大事だよ。ほら」
「んにゃ……おはよ……」
「お、はよう……」

 突然の再会から、はや六日。
 ソファの上でまだ半分閉じたままの瞼を擦り、アダムにもたれかかった黒猫型のヒト似獣人の少女ジェッタ。彼女の肩を過ぎた黒髪を梳いてやりながら、アダムは穏やかに微笑みかけてくる。

「今日も遅くなりそうですか?」
「あ、え……と。うん。昨日、よりはマシだと思うけど……」
「戻られた時には日付が変わっていましたからね。分かりました。家のことはしておきますので、本日もご無理なく」
「……あり、がとう」
「いいえ。お役に立つと言ったでしょう?」

 ヒトであるアダムと彼が連れてきたヒト似獣人のジェッタとの生活は、思いのほか奇妙なまでに平穏だった。
 あの日以来、アダムは昔の話を口にしていない。仕事にかまけ何もかもを適当に放置していたディランの部屋を、ただ淡々と的確に整えてくれた。基本的な家事から仕事に関する書類や資料の整理まで、かつての優秀さはまったく損なわれていないと分からされる完璧さ。
 さらに壊れたと思いそのままだったレコーダーやリモコンの類を次々と修理していくさまは、【楽園】でラジオなどの電子工作キットをあっさりと完成させ改造まで加えていた頃の彼を思わせる。

「アダム〜……ダメだ、私まだねむい……」
「だから早く寝るようにと言ったのに。いい子だから目を覚まして。ほら、まずは顔を洗っておいで」
「はぁい……」

 ジェッタに優しく接している姿もそうだ。
 自分だって僅かな差で年長なだけでまだ幼いにもかかわらず、グループの他のヒトの子どもたちの長兄として愛情深く振る舞っていた姿が脳裏に蘇る。
 根底はあの頃のアダムのままではないか。そんな甘っちょろいことを考えるたび、再会の夜にひどく淫猥に触れられた感触が蘇って胸がざわついてしまうのだが。

「……なにか?」
「っ」

 気が付けば、いつの間にか彼のことをじっと見ていたらしい。
 視線と意識を一瞬、アダムは廊下のほうへと投げる。ジェッタが洗面所で水を使い出したのを確認したようで、次いでその青い目がディランを映して弧を描いた。

「ドクターもまだ目が覚めていませんか? 寝つきが悪かったのか、夢見が悪かったのか……抱き枕でもあるといいかもしれませんね」

 いつの間にか伸ばされた右手の指先が、ディランの左手の甲を毛並みに逆らい下から上へとなぞっていく。
 いやにゆっくりなその動き。ゾワリと毛が逆立ってしまうのを止められない。

「今夜は、そちらのほうでもお役に立ちましょうか」

 その妖艶な笑みは、先程までジェッタに向けていた優しい顔とはまるで違っていた。
 何も言葉が出てこなくて、呼吸すらまともにできている気がしない。ディランはただ無意味に口を開いたり閉じたりするしか出来ず——しかし突然、理解した。
 再会の夜以降アダムが昔の話はおろかこういった態度を向けてこなかったのは、彼がずっとジェッタを優先していたからだ。

 ジェッタはアダムに対しては明るく甘えん坊で、表情豊かなごく普通の子どもだ。だがディランに対しては、目を覚まし最初に顔を合わせてすぐ文字通り牙を剥いて威嚇してきた程には警戒を向けている。
 初対面であることを抜きにしてもあまりに強いそれは、彼女がこれまでに経験した「ヒト似獣人の子どもゆえの苦労」を感じさせた。
 そんな彼女を少しでも早く安心させ、この環境に慣れてもらおうと考えていたのだろうか。
 アダムは初日に見せた棘を綺麗に引っ込め、この六日間ただただ穏やかにジェッタを慈しみディランに尽くしていた。彼の態度を見てジェッタもディランを敵と思わなくていいらしいと認識したのか、先ほどのように無防備な姿のまま挨拶をしてくれるまでにはなっている。

 ——やっぱり、アダムの本質は昔と変わっていない。きっと。

 腹の中では底知れぬ怒りを宿しているに違いないのに。おそらくは重い苦しみを経験してきたのだろうヒト似獣人の少女をまず先に思いやって、自分の激情を引っ込めている。
 アダムが今になってディランを探し当てて押しかけてきたのは、復讐のためだろうとディランは思っていた。しかしこうしてまずジェッタを優先している姿や、自分だけではと零していたことを思い出すに彼女の安住も目的として大きかったのかもしれない。

「……甲斐性のない方だ」

 黙ったままのディランにうっすら嘲笑に近い表情を向け、アダムが首を竦めた。半ば現実逃避のように思考を別に向けて目を逸らしていた現状を思い出し、ディランは唾を飲み込む。
 それと同時に、パタパタと軽い足音を響かせて朝の身支度を済ませたジェッタがリビングに飛び込んできた。

「アダムー! お顔も洗ったし歯磨きもしたし、お着替えもしたよ! えらいでしょ!」
「おかえり、ジェッタ。よくできました」
「えへへ!」

 とっくにディランに触れていた手を引っ込めていたアダムは、それとは反対の手でジェッタの頭を優しく撫でる。色気と負の感情をない混ぜにした寸前の態度など微塵も表に出さない。
 その使い分けこそ、間違いなく自分だけが彼に憎まれている証なのだ。
 ディランはアダムからの誘惑めいた視線が逸れたことに安堵しつつ、同時にゴロリと硬い石が臓腑の中を転がるような悲しみも覚えていた。そんな権利などないはずなのに。

「……行ってくるよ」

 のろのろと支度を整え、やっとのことでそれだけ搾り出して、ディランはリビングを後にする。

「いってらっしゃーい」
「お気を付けて、ドクター」

 背中に投げかけられる二人ぶんの穏やかな声。
 玄関へ向かう寸前に肩越しに少しだけ振り返ってみれば、ベーグルに齧り付くジェッタの傍らでアダムがじっとこちらを見つめていたのと目が合う。
 途端にうっすらと娼婦の笑みを浮かべる彼に首筋の毛が逆立つ気配を覚え、ディランは慌てて扉を閉めた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 帰宅は案の定、深夜となってしまった。
 あと少しすれば日付が変わる。左手首の腕時計に視線を落とし、ディランはなんとも言えない気持ちで部屋の前に立つ。
 本当ならもっと早く帰ってもよかったはずだった。「マイヤーズ先生、まだ残ってらしたんですか?」と看護師や同僚たちに言われるたびに明日休みだから今日のうちに色々やっつけておきたくて、と適当に誤魔化して病院に残り続けてしまったディラン。あまりにもあからさまなことをしているな、と苦々しく思う。
 今だって、扉を開ける手がなかなか動いてくれない。こうしてウダウダとしていても仕方ないのに。
 ……本当にこんな自分が嫌になる。
 深く重く溜息を吐き、ディランは鍵を開けてドアノブを回した。

「おかえりなさい」

 最低限に照明を絞ったリビングの中、アダムはひとりソファに座っていた。
 二人がやってきた夜、ひとまずと倉庫状態だった空き部屋をあてがった。寝室として軽く整え直したその部屋で、ジェッタはもう眠りについているのだろう。
 いつもならアダムもそこにいて、ディランが帰宅すると薄く扉を開けて声をかけるだけなのだが——今夜は、違っていた。

「やっぱり遅かったですね。獣人の病院がどうなっているのか、俺には想像するしかできませんが……お忙しい時期なんでしょうか?」
「い……いや、今はそこまででも……」

 馬鹿正直に言うことはなかったと思った時には手遅れだった。

「では、わざと帰宅を遅らせたと」

 うっすらと無機質な笑みを貼り付け、アダムが立ち上がる。
 喉奥に息を詰まらせたディランは何か言葉を返そうと足掻くが、それより早くアダムは「責めてませんよ」と軽く両手を挙げた。

「無理もないことです。帰宅すれば俺と顔を合わせなければならないのですから、嫌にもなりますよね」
「……っ、アダム……」
「あなたに負担をかけているのは分かっています。いろんな意味で。だからこそ」

 気付けば、いつのまにかアダムはディランの目の前まで近付いてきていた。
 その長い睫毛に縁取られた碧眼いっぱいに映る自分の姿。あっと思う間もなく細い腕が首に絡み、擦り寄るようにアダムが背伸びして身を寄せてきた。

「俺をお好きに使ってください、ドクター」
「——ッ!」

 囁き、首元をペロリと舌先で舐められる。途端に背筋が凍るのと身体の中が熱くなるのとが同時にせめぎ合った。
 ディランは雄雌問わずヒトを性処理に使ったことなど一度もない。だからアダムの経歴を察しても、ただ悲しくなっただけだったのに。
 軽く煽られた途端に自分の身に湧き起こった熱に、誰あろうディラン自身が一番戸惑っていた。
 そんなディランの様子に当然気付いているらしいアダムは、首元に縋りついたまま薄く笑う。

「……以前、俺を飼育していた獣人が言っていましたよ。ヒトを蹂躙したくなるのは獣人の本能みたいなものなのだと」

 彼の口から出た飼育という単語にまた何とも言えず腹の奥が重く沈む。だがそれ以上に「獣人の本能」というフレーズがしっくりときてしまったのがディランは心底嫌だった。
 ヒトの不正飼育はその大半が性処理を主にした愛玩目的だ。
 長らく実験目的としてヒトを飼育する【楽園】にいたディランには何故そんなことが起こるのか分からなかったが、こうして我が身に起こると痛感する。

 ヒトは獣人に比べると身体的にははるかに弱々しい。しかし賢く、個体によっては教えれば対等に会話もできるようになる。ある程度コミュニケーションが取れ、身体の仕組みも近しく、且つ圧倒的に自分よりも弱く支配できてしまう存在。
 アダムのように飛び抜けて危険なまでに賢い個体であっても、それは変わらない。首に絡んでいるこの腕を小枝のごとくへし折るくらい、ディランにも簡単にできてしまう。
 そう思うと余計に熱がざわつくのも事実で、思わず吐きそうになった。

「本能なのだから仕方のないことですよ。神様とやらいわく、悪いことかもしれませんが」

 ディランの口元を指先でゆっくりとなぞるアダムが、美しさも相まってまるで悪魔のように見えた。
 情けないことに相変わらず返事ができないでいるディランを嘲笑うかのごとく、同じ指先で今度は自身の唇に触れて。

「……その気が起きないなら、眠れるように昔話でもしましょうか」
「え……?」
「あなたが、俺たちを捨てた後の話ですよ」

 ドクン、と心臓が派手な音を立てて大きく跳ねた。
 ——【楽園】からアダムたちを逃したあと、恐ろしくて外の様子を伺うこともできなかったディランは彼らがどうなったのか今の今まで当然知らない。
 想像は、していた。こうして五年も経ってから生きてアダムと再会したのが奇跡であるくらいには、外界に出したヒトが生きていけないだろうことは気付いていたから。
 そもそも奇跡的な耐性を持っていたアダム以外、皆して既に弱り切っていた子どもたちだった。あの頃は目の前の苦しみしか見えていなくて、そんなことすら省みることはできなかったが——

「扉を閉められてしまったので……ここに戻ってはいけない、戻れないということだけ理解しました。吹雪に追い立てられるようにして、みんなでわけも分からず走って……まず、ナアマが死にました。躓いて、崖から落ちて。あの子は腕を切断されていましたから、どこにも掴まれなかった」
「っ……!」
「次にエノクが死にました。あの子はいろんなところが壊死して脆くなっていましたよね。寒さのせいで……少しずつ、動かなくなりましたよ」
「やめてくれ……アダム、もう……」
「それから同じくらいに、カインが。あの子も肌や粘膜がボロボロだった。口の中まで真っ赤で、雪を溶かした水も飲めなくて……。一瞬で死んでしまったナアマはまだ幸せだったかもしれないと、思ってしまいました」
「……アダムっ……!」
「最後に、一番小さかったディナ。——振り返ったら、大きな虫に頭を齧られて死んでいました。俺が、手を引いて歩いていたのに」

 あれはスプークでしたね、と視線を伏せてアダムが零す。
 かつてヒト社会だった頃に獣人の先祖の一部が害獣としてヒトを襲っていたように、獣人社会では巨大に進化した昆虫たちの一部がそのポジションとなっている。
 スプークと呼ばれる巨大コオロギはその代表格だ。食欲旺盛で獰猛で、動くものならば何でも食べ物とみなして襲いかかってくる。【楽園】の周辺ではあまり見かけなかったが、少し離れた針葉樹林帯には群れを作っていたという話を聞いたことがあった。
 彼らはそこまで逃げたのだろう。そうして、そこで。

「……直後に、たまたま通りかかった猟師の獣人に助けられました。俺をヒト似獣人の子どもだと思ったようです」

 伏せた目はそのままに、ぴたりとディランに身を寄せた状態を保ってアダムは続ける。

「よく見ればすぐに違うと気付いたでしょうに、あの方は俺をあくまでヒト似獣人の子どもとして扱っていました。しばらく、お世話になって……いろんなことを教えてもらって。けれど間もなく亡くなりました。かなりの高齢だったと思います」

 過酷な外界でたまたまアダムがひとり生き残ることができたのは、その高齢の猟師のおかげだったのだ。
 ディランは乱れる呼吸を必死に落ち着けて、頭の中で彼の話をなんとか整理する。

「……じゃあ、君は……そのあとは……」
「それも聞きたいですか? ……もう、ご理解いただけていたものとばかり」
「ッ」
「それはもう可愛がってもらいましたよ。いろんな獣人に。転々と。最終的に逃げ出して、今に至っています」

 怖いほど穏やかに微笑むアダム。青い瞳の奥に、あの夜の吹雪が見えるのは錯覚だろうか。
 言葉の節々に籠る意味が分からないほど愚鈍ではないし、もちろんとっくに気付いていた。なのに。苦し紛れに口を開いたとはいえ、何故質問を重ねるような真似をしてしまったのだろう。
 筆舌に尽くしがたい地獄を味わってなお、生きてここにアダムはやってきた。
 改めて、その意味に思考を巡らせる。やはりそれは、彼が「そう」なってしまう原因を作った自分への復讐以外にないだろう。今すぐ刃物や銃を突きつけられても仕方のない仕打ちをしたのだから。

「君は……僕を、殺しにきたのか?」

 ポロリと落ちた言葉に、アダムは心底不思議そうな顔をした。一瞬とはいえ、それは幼い頃と同じ邪気のない顔。
 あまりに意外な反応で、ディランも呆気に取られてしまう。

「——まさか。言ったでしょう? あなたのお役に立つために来たんです」
「だっ……て、僕は、君を……。そんな僕に、君が尽くす理由なんて何もないはずだ……っ」
「ありますよ」

 首筋に擦り寄られ絶句するディランを見上げて、アダムは言う。

「俺にはあなたしかいない。あなたしか頼れない。それも最初の日に言ったでしょう?」
「……だからって……なんで、……っ」

 なんで、今になって。
 言いかけて、今度は言葉にする前に気付いた。アダムが連れてきたヒト似獣人の少女。あの子の安住のためなのではないかと、朝に思い至ったばかりではないか。
 恨みも勿論あるだろう。いま語った死んだ仲間たちの話を、その原因となったディランに聞かせたくて仕方なかったことだろう。だが六日間ずっとそれを押さえ付け、ジェッタが新しい環境に慣れることを優先し続けていたアダムなら。

「俺は何も持っていません。今も昔も、獣人の——あなたのお役に立てるのは、この身体ひとつです」

 娼婦の笑みの中、昔と変わらぬ深く青い海の瞳にどこか必死な色を感じるのは気のせいではないのかもしれないと思った。
 ジェッタをここに住まわせて貰うため、とは彼は別に口に出してはいない。ずっと酷い環境にいたと今やもう理解しているのに、獣人に対しての恨み言ひとつすらも。それもひどくアダムらしかった。彼は変わらずずっと、優しく献身的なヒトの子だ。

 そんな彼が、自分のことだけはきっと深く恨んでいる。ただひとり、利用していい相手と判断して誘惑している。
 これしかできないヒトの身だからこそ、必死で——ディランに罪を犯させようとしている。

「それとも、まだ昔話のほうが聞きたいですか? この先は」
「アダム」

 遮って、名前を呼ぶ。その声音が妙に落ち着いていたからなのか、アダムがキョトンと目を瞬かせた。
 またも純真無垢な賢いだけのヒトだったあの頃と同じ顔に見えて一瞬躊躇ったが、もう彼は全てを知っている。あの頃の【楽園の子ども】ではない。
 背丈も随分と伸びている。おそらくヒトの青年期の平均値よりも高いほうだろう。しかし獣人の中でもかなり大型の体躯を持つディランからすれば、小さくて脆弱なことに変わりはない。薄い肩に手を置くと、アダムの目線が静かにそちらへ流れた。

「もう、いいよ。分かったから」
「何をですか」
「……分かったから……」

 きちんと言葉にして返事など出来そうもなかった。
 肩に置いた手をゆっくりと腰へ滑らせて、引き寄せることで答えにする。刹那アダムが唇を噛んだように見えたが、その意味は分からない。

 これは贖罪だ。
 元々天国の顔をした地獄の中に囲っておきながら、いっときの激情に任せて更なる地獄の最下層へと彼を突き落としてしまった自分にできるただひとつ。
 アダムが、復讐と大切な者への献身を兼ねてそこから手招きするのなら。

 彼が望むまま同じ場所まで堕ちてやるくらいしか、ディランに償う道はない。

「……嬉しいです、ドクター」

 青い瞳が緩慢に弧を描く。
 口元にそっと押し当てられた唇の柔らかさ、抱き寄せた腰の細さが、一度落ち着きかけていた熱をまた燻らせた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

一章前半でした。漫画で描いてる正規ルートをご存知の方にとってはめちゃくちゃネタバレ回。「楽園」はこういうとこで、ディランはそういう立ち位置でしたという話。

このあとちょっと進むとR18パートになるんですが、鍵なしブログでそういうの載せるの大丈夫なのか…?とちょっと心配もあるのでこの先を後悔する時はアルファポリスかムーンライトノベルズにまとめて載せ直すと思います。たぶん。

その際は序章やこの回も多少加筆修正で描写が増えてたりするかも。

 

(2024.4.24追記)

R18パートに入る直前までを追加しました。

このあと3,000文字くらい?R18パートが入って一章は終わりです。

GW以内にはいい加減タイトル決めて、まずはアルファポリスあたりにちゃんと載っけ直したい!

 

ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました!

↓のウェーブボックス、なんかぽちぽちしてやって頂けましたら喜びます🙌

https://wavebox.me/wave/18f8ihfif3wihvz7/

小ネタ漫画・一枚絵ログ

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↑シロクマのシルバニア(廃盤)がなかなか届かなかったというネタ絵
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↑小説序章の扉絵的なやつ

小ネタ漫画たちがデレ期ばっかりなので物凄いヒエッヒエのギャップ…
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↑実はディランを名前で読んだことが一度もないアダムさんである
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↑普段口では勝てないぶん無意識下の行動のほうが強いディランです

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↑「可愛い」と伝えてみたら妹分強火にスンっと拒否された
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↑「可愛い」ネタの続き。可愛いにも色々あるがこれはこれで失言に違いないアダム
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↑理系の男なアダムは彼シャツという男の浪漫をいまいち理解できていない

 

 

 

◇ ◇ ◇以下ちょっぴりだけセンシティブ◇ ◇ ◇

 

取り敢えずべろちゅーさせるのが好きなのでそればっか

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序章

 ※


 「ヒトの保護及び管理に関する法律」

・研究目的以外での飼育、許可のない販売、生きたままの許可なき運搬を禁ずる。
・研究目的以外での繁殖を禁ずる。
・研究目的以外でヒトに言語を教えることを禁ずる。etc...

 野生個体及び許可のない飼育等を発見した場合、ただちに行政に連絡すること。


 ※


 ◇序章


 早朝から降り出した雨は、ディランがようやく仕事を終えた真夜中まで続いていた。
 街で一番大きな病院の割にはずいぶん貧相なつくりの裏口の扉。半分開いたそこからそっと半端に顔を外に出すと、冷気と雨の雫がディランの白い毛並みに叩きつけてくる。体格の割に小さな耳が勝手にブルっと震えた。
 もう冬が近いな、と。ぼんやりしていたからか。

「いっ……!」

 外に出ようとして出口の上部に派手に頭をぶつけ、悶絶する羽目になる。自分の身長では軽く屈まなければそうなると分かっていたはずなのに。
 幸い周りには誰も——いや、看護師がひとり。「お大事に、マイヤーズ先生」と嘴を抑えクスクス笑って、見事な長い尾羽を揺らして先に出て行った。
 じんじんと響く痛みを堪えつつ、ハイと弱々しい返事をして見送るしかない。
 シロクマ型の獣人ゆえ、他の同僚たちより群を抜いて大きな自身の体躯を自覚していないわけではない。が、何かにつけて気が抜けて、頭やら肘やら膝やらをぶつけて痛い目を見てしまう癖は直らない。昔から。

『大丈夫ですか? ドクター』

 だから。
 懐かしいあの柔らかな声を、こうして度々思い出す羽目になる。
 毎度のことすぎてもはや誰もが苦笑で済ませる中、律儀にいつも真面目に心配してくれていたあの子を。

 黄金の稲穂のように見事な髪。海のように深い青を宿した目。
 つるりとした白磁の肌。
 獣人の自分たちとはまるで違う彼の姿を、声の次にひとつひとつ思い出す。

「……帰ろう」

 延々と思い出に耽り座り込んだままになってしまう前にと、無理やり声に出して立ち上がった。
 傘立てから自分のものを見つけ出し、緩慢に抜き取る。
 冬が近付くといつもこうだ。奥底にしまった忘れられない記憶がとめどなく溢れ出てきて、ディランの思考も足もがっちりと止めてしまう。

 ——いや、そもそも。
 本来なら片時も忘れてはいけないものなのだ。「あの子」のことは、自身が犯した罪の記憶と直結しているのだから。

 それなのに普段は忘れたふりをして、なかったことにして、知らないふりをして。
 「世間一般的な普通の獣人」のふりをして生きている自分が、ディランは何より嫌いだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 かつてこの世界は、「ヒト」と呼ばれる生き物が頂点に君臨していたらしい。
 そして獣人たちの先祖に当たる「動物」たちを支配し苦しめていたという。
 だが、やがて動物たちは「獣人」へと進化していく。ヒトと獣人は何度も何度もぶつかり合い、争いを繰り返すうちにいつしか獣人が優勢になる。同等の知恵とヒトよりも強靭な身体を持つ獣人に敵わなくなったヒトは徐々に衰退し、今のように——絶滅危惧種にも等しい存在となった。
 何の因果か、獣人たちの中には稀にヒトによく似た容姿の「ヒト似獣人」も生まれる。しかし彼らはその外見のせいで長く迫害を受けてきたし、現代においても著しく社会的地位が低い。「ヒトに似ているから」それだけの理由でだ。

 もはやかつて頂点生物だった頃の面影はなく、知性も言葉も失いぼんやりと研究所で飼育されるだけ。
 過去に自分たちの先祖を苦しめていたらしい、珍しい生き物。
 この世界に暮らす獣人にとって、ヒトという生物はそういうものだった。

『ヒトを繁殖させ、不正に売り捌いていたとして◯◯グループの会長が逮捕されました』
「この手のニュース、尽きないな」

 交差点の信号待ち。
 左手に傘を持ち、右手に持った携帯電話でテレビニュースを見ていた垂れ耳のウサギ獣人が、隣の短毛な灰色のイヌ獣人に向けてボヤく。

「そうなあ。ヒトの飼育やら繁殖やらは研究目的以外は犯罪って決まってんのに、なーんでやらかすのかね。ダメって言われるとやりたくなんのかな?」
「子どもじゃないんだぞ。理性働かせろってんだ」

 見たところ二人ともまだ学生のようだが、アルバイト帰りか何かだろうか。傘に隠れて気付かれない程度に横目を向け、悪いと思いながらもディランは彼らの会話を盗み聞きしてしまう。

「そもそもそういう連中、飼育っつってもマトモな飼い方しないだろーにな。なんかホラ……アレしたりコレしたり、神サマ激怒案件なことに使うためだろ?」
「やめろ想像させるな。そんなとこまで僕は興味ない」
「そう? でもあれだな、ヒトって取り締まりめっちゃ厳しいよな。こっそり飼うとかもだけど、言葉教えるのもダメだし」
「元々ヒトは賢いらしいからな。言葉覚えてヒト同士で結託されたら厄介だろ」
「俺まえに特別展示でヒト見たことあるけど、あんなポケーっとした生き物にそこまで知恵あるかねえ? 確かにヒト似獣人マジそっくりとは思ったけど……あっ、もし野良ヒト見つけても生きたままその場から動かすのもダメなんだろ?」
「そう。触れず騒がず、即通報だ。特定外来生物みたいなもんだよ。ていうか野良ヒトなんて都市伝説級の話だぞ。脆弱すぎて野良で生きていけないだろ」
「はーあ。かつての頂点生物サマが哀れなもんだな〜。じゃあアレか、【北の楽園】の噂なんてそれこそマジの都市伝説じゃんね」

 どきり、と心臓が跳ねる。
 傘を持つ手が震えてはいないか、側の二人に気付かれてしまうのではと密かに焦った。

「はあ? 【北の楽園】て……お前、そんなくっだらない噂話信じてたのか?」
「いや信じてはないなー。でもさ、獣人とヒトが仲良く暮らしてる楽園がどこかにあるらしい……なんて。フィクションとして面白いじゃん。種族は違っても通じ合える! 的な。俺そーいう感動的なハナシとか好きなんよ」
「……まあ、分からんじゃない。子ども向けとかではよく見るよな。弟たちが見てるアニメにもそういう設定出てくるし」
「それ俺の趣味がガキっぽいって言ってる?」
「いや? 僕も嫌いじゃないからな」

 信号が青に変わった。
 ウサギ獣人の青年はすぐに携帯を閉じ、イヌ獣人の青年も話は終わったとばかりに伸びをして歩き出す。
 当のディランはと言えば、例によってすぐには動くことができず。後ろからフードを被ったカラス獣人に追い越しついでにぶつかられ、舌打ちをされて初めて我に帰った体たらく。
 すみませんと謝る暇もなければ、正直その気も湧いてこない。のろのろと足を動かし、交差点を渡る。ディランの住むアパートメントはもうすぐそこだが、このままではボンヤリと通り過ぎてしまいそうなくらいには心ここに在らずだった。
 傘を叩く雨の音が、少しずつ強くなる。雨はまだまだ止みそうにない。

『ドクター、これはなんですか?』

 初めて傘というものを見た時、「あの子」は未知の道具に目を輝かせていた。
 彼は生まれた時からずっと屋内しか知らない。ゆえに雨を経験したことがなく、傘など使う機会があるはずなかった。
 他の子たちも興味はあるようだったが初めて見るものに触れるのも怖いのか、彼の後ろに隠れるばかり。青い目を晴れた海のようにキラキラと輝かせて傘を手に取り、使い方や他にも種類はあるのかなど訊ねてくるのは「あの子」だけだった。

 ——本当に、ヒトという生き物は自分たちと同等に賢く器用だったのだと。
 ——自分たち獣人と、たいして変わらないのだと。
 彼と関わるたびにディランは思い知らされていた。

 ならばいま自分が彼らにしていることは何なのだろう。許されないことなのではないか。あの頃のディランはそんな思いに押しつぶされそうになっていた。
 楽園と、世間ではそう呼ばれている場所にいたにも拘らず。

 【北の楽園】。獣人とヒトが仲良く暮らせる場所。
 都市伝説上勝手にそう言われているにすぎないが、皮肉な方向で考えれば的を射た表現だったかもしれない。確かにあそこでは、獣人とヒトは笑顔を向け合っていた。「仲良く」していた。
 その方法が、理由が、どんなに獣人だけに有利で勝手なものであったとしても。

『俺たちはお役に立てていますか?』

 日に日に弱り、数を減らしていく子どもたち。その姿に耐えられなくなったのはいつからだろう。
 それでも何も知らない無垢な彼らは、「あの子」は、そう言って笑いかけてくるから。心が切り裂かれるようで。だから。
 だから、あの日————

「……えっ?」

 辛うじて、アパートを通り過ぎるなどというヘマはしなかったディランだったが。
 エレベーターを降りてすぐ目の前の自室の扉に手をかけたところで、ぐるぐる巡っていた思考がぴたりと止まった。
 鍵が、開いている。
 ぞわりと毛が逆立った。
 家を出る時にもしかして閉め忘れてしまったのかと一瞬不安が過ぎったが、確かに鍵を回す音を聞いた記憶がある。誰かが不正な手段で鍵を開けて中に入ったとしか思えない。

「……、……」

 落ち着けと自分に言い聞かせ、唾を飲み込んだ。
 まだ、その誰かは中にいるだろうか。泥棒だとすれば、とっくにことを済ませて出ていってくれていればまだマシなほうだ。もしまだ中にいるのなら——確実に、ろくでもない目的で居座っているだろう。
 最悪の事態も想定しつつ、ディランは音がしないよう気を付けながら恐る恐る扉を押し開けていった。半端なところで一度止め、様子を伺う。……特に、何も起こらない。
 扉のすぐ向こうで誰かが息を潜めている可能性も考えたが、息遣いなどの些細な物音はこうも雨音が激しくてはかき消されてしまうだろう。埒があかない。ディランは一度大きく息を吸って、細くゆっくり吐き出した。
 そしてわざと派手に思い切り扉を開く。

 玄関、そしてここから見える範囲内に限っては誰もいない。電気がついている様子もなかった。
 念のため武器がわりに手にしていたほうがいいかと、傘を玄関に置くのを躊躇う。後ろ手に扉を閉め、鍵はそのままにしておいた。いざという時すぐに飛び出せるようにだ。
 雨の雫が滴る傘を右手に握りしめたまま、リビングへと慎重に足を運ぶ。
 あまりにも静かだ。やはり、もう侵入者はやることを済ませて出て行ってしまったのだろうか。とすれば部屋はかなり荒らされているかもしれない——そんなことを考えながら、リビングに一歩踏み入った瞬間。

「おかえりなさい、ドクター」

 凛とつめたい声が響いた。
 次いで、パチンと頭上でライトが点灯する。急な眩しさに目が眩み、ディランの思考と同様に真っ白になった。
 ある程度は成長した男の声、のように聞こえた。おそらく、覚えのある声ではないはずだ。なのに——ディランの心臓はどくどくと激しく脈打っていた。無意識に、傘を手放してしまうほどに。

 ドクター、と。
 声の主はそう呼んだ。

 遠い記憶の中、無垢な笑顔とまっすぐこちらを見つめる青い目が蘇る。
 当時はまだ幼く高かった声で、自分をそう呼んでいたのは……

「……大丈夫ですか?」

 たっぷり時間が経ち、とっくに明るさにも目が慣れたはずなのに。微動だにできないディランへと「彼」は、そっと声をかけてきた。
 首の横で括った長い金髪が肩を流れる。シルクにも似た艶髪の隙間から、平べったく小さな楕円状の独特な耳が覗く。
 獣人とは全く異なる、つるりとした真白い肌。根本から異なるはずのこちらの美的感覚を以てしても、芸術的に整っていると本能で感じる美しい顔立ち。

「……、……アダム……?」

 我知らず、その名を呼んでいた。満足そうに目を細め、彼は「はい」と肯定する。
 思い出の中に秘めていた幼い「あの子」が。
 空白の時間のぶんだけ成長した姿が、そこにはあった。
 深海のように深く青い目と正面から視線が絡んだ瞬間、ディランは冗談抜きに膝から崩れ落ちる。

「ドクター、本当に大丈夫ですか?」

 リビングの真ん中に立っていた彼——アダムが、形のいい眉を下げて歩み寄ってきた。

「確かにお久しぶりですけれど、そんなに驚かなくてもいいのに。幽霊などではありませんよ、俺は」
「っ……アダム、なのか……? 本当に……?」
「はい。あなたがよく知る【アダム】です」

 それはまるで絵画のように完璧な、貼り付けた美麗な笑みで。
 鍵が開いているのに気付いた時以上に総毛立ち、ディランは震える手で自身の膝を強く掴む。

「……ああ」

 それを見たアダムが、合点がいったとでも言わんばかりに頷いた。操り糸にでも引っ張られたかのような、温度のない動きだった。
 かつて彼が纏っていた優しく温かな空気は、ない。まったく。
 理由など聞かずとも明白だ。

「驚いたというより、怯えているんですね。何の力も持たない、脆弱なヒトの俺に。獣人のあなたが」

 すぐ目の前にアダムが膝をつく。

「俺に恨まれているかもしれない。その自覚はあるんですね、ドクター」
「っ」

 息が止まる。獣人のそれに比べはるかに薄く脆い爪と皮膚に覆われたアダムの指先が、ディランの手に触れた。
 久しぶりのヒトの感触。体温が急激に抜けていくような感覚に襲われる。

 この手が今より遥かに小さかった頃。
 手を繋いで、誰にも見つからないよう気を付けて、セキュリティを潜り抜けて。
 無垢な青い瞳は不思議そうにディランを見上げていた。どこに行くのかと訊ねられたが、最後の扉を開くまで何も答えることができなかった。

「あの時、この手を離されるなんてまったく思っていませんでした。【俺たち】に優しかったあなたに、まさか——」

 半端なところでアダムはふと唇を閉ざす。そうして一瞬消えた笑みを、より無機質に貼り付け直して。

「捨てられるなんて」

 ——五年前の光景が、脳裏に蘇る。
 ひどい吹雪の夜だった。どうしてももう耐えられなくて、目の前で繰り返される悲劇から逃れたい一心で。
 訳が分からないと呆然とした顔をまともに見ることもできないまま、逃げてくれと一言。無理矢理施設の外に押し出して、扉を閉めてしまったあの日。

 ヒトを【実験生物】として扱う【楽園】から、アダムたち小さなヒトを逃がしたあの日を。

「アダム……っ、僕は……!」
「お静かに」

 何を言おうと決まっていたわけではない。
 ただ咄嗟に上げかけただけの声は、アダムの細く長い指に押し留められた。

「あの子が目を覚ましてしまう」
「……え?」
「久しぶりにぐっすり眠れているんです。しばらく、そのままにしてあげてください」

 アダムの言葉にディランはぎこちなく首を傾げたが、彼の視線がソファに流れたのにつられ目を見開いた。
 シンプルな紺色のソファの上、暗赤色のワンピースを着た幼い少女が丸まって眠っていた。
 アダム同様に頭髪以外に体毛の見受けられない肌を見てヒトかと思ったが、黒い猫の耳と尻尾があるのにすぐ気が付いた。彼女はヒト似獣人——だろう。まだ十歳くらいに見える。

「彼女、は……?」
「……妹のようなものです」

 アダムがそれ以上を語ることはなかったが、ヒトと行動を共にするヒト似獣人の少女など当然身寄りもないだろうと想像がついた。
 ひと昔前ほどではないとはいえ、ヒト似獣人の社会的地位は未だに低い。深い意味もなく差別され、治安の悪い土地では下手をすれば「耳と尻尾を落とせばヒトと偽って高く売れる」などという最悪な理由で襲われる。
 特に子どもは価値が高く、真っ先に狙われがちだ。親を殺されたか先に売られたかの中、からくもひとり生き残ってしまった子どももすぐに悲惨な末路を辿るのがセオリー。
 彼女もまた、そうなりかけた子ではないだろうか。

 かつて【楽園】の子どもたちの中で一番年長で、長兄的な存在だったアダム。
 幼いヒト似獣人の少女を優しく見つめるその横顔には、あの頃の面影が色濃く見えた気がした。

「ドクター」

 ぼんやりとしている場合ではないぞ、とばかりに。平らな声に現実に引き戻される。

「俺がわざわざこうして、あなたを探し出して会いに来た理由が分かりますか?」
「あ、……」

 口元に、ヒト特有の柔らかな皮膚の感触。
 突きつけた指でそのままディランの口の縁をなぞる仕草は、ヒトがするにしては異様に蠱惑的だった。
 まるで熟練の娼婦のようだと感じてしまい、ディランは自分でもよく分からないまま反射的に首を振る。奇しくもその仕草はアダムの問いに答えた形になってしまい、彼の失笑を買うこととなった。

「そうですか。じゃあ、ちゃんとお伝えしますね」

 引っ込めた指先をペロリと小さな舌で舐めてみせる。
 ……こんな振る舞いをする子ではなかったはずだ、と思った。思って、すぐに自分を殴りたくなった。当たり前だ。あの頃のアダムは何も知らない、まっさらで無垢な「賢いだけのヒトの子」だったのだ。
 五年の間に何があったのかは分からない。一緒に逃したはずの他の子どもたちはどうなったのかなど、アダムがこうしてヒト似獣人の少女だけを連れている時点で聞くまでもない。
 野良ヒトなどそれこそ都市伝説だと、さっき聞いたばかりではないか。

 つまり、後ろ盾のない状態で野良のヒトがこうも長く生き延びるには。
 ——先ほど出会ったイヌ獣人が言うところの「神様激怒案件」な扱いに身を委ねるほか手段はない。それ以外に、思いつかない。
 今更そんなことに気が付いて、血の気が引く思いがした。

「俺はずっとあなたに会いたかったんです。会って、もう一度話をしたかった。それだけでもいいと、思っていたんですが」

 再びアダムの手が伸びてきて、膝を掴んだままのディランの手の甲に重ねられた。

「……俺だけでは、無力です」

 伏せられた長い睫毛の下。その目線はソファに眠る少女へと微かに動く。同時に落とされた言葉に刹那、温度を感じてディランは顔を上げた。
 その時にはもう、アダムは絵に描いたような美しい模造品の笑顔を貼り付けていた。

「ねえ、ドクター。俺をもう一度お側に置いてください。あなたしか頼る先がないんです。また、前と同じようにお役に立ちますから」
「アダ、ム」
「昔と違うお手伝いも、今ならできますよ?」

 細い指がゆっくりと、蜘蛛の糸のように絡んでくる。
 間抜けにも遅れてその言葉の意味を察し、ディランは危うく叫び出すところだった。
 不正に手に入れたヒトを性的な目的で使う獣人が少なくないことは、当然知らないわけではない。
 だが知性と理性ある獣人でありながらヒトと交わるなど、あのイヌ獣人が言う通り神の怒りに触れる行いだ。ヒトが支配者だった時代も、逆の行いを罪としていたはず。

 しかし、アダムは既に知っている。
 罪だの許されないだのただの建前だ。ヒトなどそうやって玩具同様に獣人に消費され、奇跡のような確率で生き延びるしかない存在なのだと、身をもって知っている。

 ——あなたもそうしたいのなら、喜んで。
 ——だって形は違えど、俺の身体をいいように使ってきたでしょう?

 そう言わんばかりに愉快げに唇の端を吊り上げて、アダムは動けないディランの首に抱きついてきた。

「今度はもう捨てないでくださいね、ドクター」

 締め切ったままのカーテンの外、更に強くなった雨が窓を叩く。
 だがディランの耳には雨音などまるで聞こえていなかった。ただアダムの囁きが遅効性の毒のようにじっくりと、心身を冷やしていくばかり。

 ああ。
 大嫌いな自分に相応しい地獄が、目の前で口を開けている。

 肯定も否定も、何の返事もできないまま。
 ディランはぴったりと密着してくるアダムから伝わる、規則正しい心臓の鼓動だけを感じていた。

 

 

 

***

序章ここまでです。

こうやってディランとアダム&ジェッタの同居生活スタートしましたという話で、この後のアレコレはAJJ本編のほう完結後にガッとどこかのサイトに掲載していこうと思ってます(すでに五万字くらい書いてる)

R18なんでムーンライトノベルスあたりかなと…

そしていずれ個人的に本にする!!これは絶対に!!

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!

そんでウェーブボックス作ってみたので、なんかぽちぽちしてやって頂けましたら喜びます🙌

https://wavebox.me/wave/18f8ihfif3wihvz7/

キャラクターと世界観設定

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この三名がここで扱う話のメイン。

(支部で連載しているApple Jelly Jamという漫画のifルートのお話にあたりますが、これ単体でも読めるように書いていってます)

CPはディラン×アダム。獣人×ヒトです。

主体のストーリー(BLでぬるめのR18)は小説で書いていずれ全部ムーンライトノベルスあたりに載っける予定。自分用に物理本にもしたい。

 

メインの話を全部載っけられるまではブルスカでは単発小ネタ漫画とか絵とかSSとか載せていけたらいいなと思ってます!

とりあえずのっけの状態は

 

ディラン→何がなんやらだし過去の自分の罪が突然押し寄せてきて内心グッチャグチャだけどとにもかくにも二人を保護

アダム→過去の罪をつっつく形でディランを利用しにきた? 何やら色々訳アリが深そうだけど肝心なことは沈黙。ジェッタのことが最優先。

ジェッタ→一番なにも分かってないながら「新しいお家? アダムと一緒にここで暮らしていいの? やったー!」と純粋に喜んでる。

 

こんな感じ。

メインCPのふたり主にアダムはギスギス期→なんやかんや起こる(この辺りをメイン小説で書いてるところ)→デレ期という変遷を辿るので、単発小ネタ漫画とかでいろんなとこを描きたい!

 

こんな感じでフリーダムにやっていきます!