【北の楽園】。
はるか北のどこかにある、獣人とヒトが種族を超えて仲良く生きられる秘密の場所。
世間一般的には都市伝説として語られている。
実際、北の大地に【楽園】はある。
そういう名前の、とある医薬品開発グループとして。
【楽園】はどこの国にも属さない、半ば治外法権の組織だ。
古くからひっそりと薬の開発を続け、表には出てこず常に社会の影の部分に在り、医学の発展に貢献し続けてきた。
かつて「ローカスト熱」という致死性の高い病のパンデミックが起こり世界中が大恐慌に陥った時、ワクチン及び治療薬を開発して皆を救ったのは誰あろう【楽園】である。
その功績に見合う賞賛の声や褒美を、【楽園】は当時の各国首脳陣に求めなかった。それどころか、自分たちのおかげであることを世間一般の獣人たちに知られることすら求めなかった。
求めたのはたった一つ。「今まで通り放っておいてくれ」——ただそれだけ。
【楽園】の理念は世間に認められることではない。
ただ淡々と、黙々と、新しい薬を開発して獣人社会に貢献すること。
その薬の開発に、どんなに非道な手段を用いていたとしても。
ワクチンは通常、鳥——獣人のように知的進化を遂げなかった一部が鳥類には存在する——の卵から精製される。
しかしローカスト熱をはじめとする獣人にとって致死性の高いウィルスのいくつかは、不思議なことに鳥の卵の中ではまったく増殖しない。試行錯誤を繰り返すうち、やっと見つけた正解が「ヒト」だった。
ヒトの身体の中では獣人同様に爆発的な増殖を見せるウィルスたちを見て、【楽園】の獣人たちは以前から抱いていたある懸念が真実かもしれないと沈痛な面持ちになる。
いつからかヒト似獣人なるものが生まれるようになり、じわじわとその割合が増えていっているように。かつてヒトのあの姿が社会性動物としての進化の完成系かもしれないと言われていたように。
動物から知的進化を遂げた獣人は身体の中身も外見も含め、ヒトへ近付いていっているのではないかと。
以後【楽園】は積極的にヒトを研究し、飼育頭数を常に一定に保つよう繁殖させ、利用するようになる。
いずれ自分たちが成る未来の姿かもしれない生態モデルとして。
そして彼らを材料にワクチンや治療薬を開発し続け、変わらず獣人が支配する社会の維持に貢献するために。
◆ ◆ ◆
今はとある街の大病院で働くシロクマ獣人の医師ディラン・マイヤーズは、かつて【楽園】に属していた。
この頃の名前はディラン・クラーク。
両親はともに【楽園】に所属していたスタッフだったが、実験中の事故で早くに亡くなったため組織幹部の元で育てられた。ある程度の年齢になると自然とディランは【楽園】の中で仕事をするようになり、やがて適性を見出されて若くして医師となる。
医師と言っても、【楽園】に所属するスタッフたちを専門に診ていたわけではない。どちらかといえば、その中で飼育されている——被験生物であるヒトの医師として、だった。
「この子たちが、あなたが主に担当するグループのヒトたちです」
そう言って黒羊獣人のスタッフが開いた扉の向こう。それはそれは小さくて弱々しいヒトの子どもたちが十人ほど、無機質な床に座り込んでいた。
誰もが不思議そうに大きなディランを見上げる中で、ひときわ目を引く金髪の美しいヒトの子どもが立ち上がる。
「ネラ先生。この方も、俺たちにお勉強を教えてくださる先生ですか?」
あまりにも流暢に喋るその子にディランは最初、恐怖すら覚えた。
個体差こそあるものの、ヒトは本来なら知能が高い。教えさえすれば獣人の喋りを真似るようになることは知っている。だが、目の前の子どもは「真似る」などという域ではなかった。
言葉の意味も、その言葉を使う適切なタイミングも、何もかもを獣人同様に理解して喋っている。
何より、ネラ——ディランを育ててくれた幹部の娘であり、ディランにとっては義妹にも等しいスタッフから「先生は先生でも、彼はお医者様よ」と返されたあと。
「じゃあ、ドクターとお呼びします。よろしくお願いしますね」
そう言ってはにかんだヒトの子どもに、獣人との違いなど姿ひとつしかないように思えて。
ヒトを——彼らを実験体はおろか材料にまでした薬の開発事業に身を投じていることが、だんだんディランは恐ろしくなっていった。
果たして、これは正しいことなのか?
一度でもそんなことを考えてしまえばもう、ディランの心はヒトの子どもたちへと傾いていくばかり。
無邪気に懐いてくるヒトの子に、せめて彼らが置かれている辛い現実の慰めになればと様々なものを見せたり教えたりもした。
「ドクター、できました!」
そしてここでもまた、例の美しいヒトの子ども——アダムは抜群の学習能力の高さと器用さを見せた。
歌を教えれば一度でほぼ完全に音階やリズムや歌詞を覚え、電子機器の組み立てキットを与えればテキストやディランからの助言を参考にあっという間に完成させてしまう。そのうち、自己流で改良まで加えてしまう始末。
ニコニコと満面の笑みで成果物を見せてくるアダムの頭を撫でてやりながら、凄いねと心の底から感嘆するしかなかった。
すると、彼は照れ笑いしながらこう言うのだ。
「嬉しいです。こうしてできることが増えたら、俺はもっとドクターたちのお役に立てますか?」
え、と間の抜けた声が出たディランを、透き通った海色の目が真正面から映す。
「俺たちヒトは獣人のお役に立つために生まれてきたんですよね? 実験のお仕事は、痛かったり辛かったりもするし……失敗してしまう子もいますけど。でも、優しくしてくれるドクターたちのために頑張りたいと思っています」
喉の奥が焼けたように渇いて、ディランは何も返事ができなかった。
そう思うように、この子たちは躾けられている。疑問すら抱けない。飛び抜けて賢いこの子ですらそうだ。生まれた時からここしか知らないのだから。
ヒトがかつては知性高く世界を支配していた生き物だったこと。獣人の反逆で立場が逆転し、むしろより酷い立場になってしまっていること。中でもここに生まれてしまったがばかりに、医薬品開発の材料として搾取されていること。
何もかも【楽園】の獣人たちの偽りの優しい笑顔で隠され、自分たちはそういう生き物だとしか思えていないのだ。
「俺がもっと色々覚えてネラ先生やドクターたちをお手伝いできるようになれば、実験以外でもお役に立てるかもしれないと思っていました。だから、ドクターが俺にたくさんいろんなことを教えてくれて本当に嬉しいんです」
その健気で無垢な清い心に、何も報いがないこともアダムは知らない。
強いて一つだけ報いがあると言うのなら、死んだあと。罪がなんたるかも知らない真っ白な魂のままで天国へ行ける。ただそれだけだ。
だがそれは死を迎えることで辛い現実から逃れられるだけ。報いでもなんでもない。少なくとも、全てを知っているディランにはそう思えない。
「……ドクター?」
黙ったまま震えるしかないディランに不安になったのか、アダムが眉尻を下げて一歩近付いてくる。小さな手が触れてきて、ただでさえ潤んでいた涙腺が崩壊した。
「ど、ドクター! どうしたんですか……?」
いきなり大の大人が泣き出せば、びっくりするのは当たり前だ。
慌ててディランに飛びついてきたアダムは、必死に手を伸ばして溢れる涙を拭ってくれようとした。そんな様もまるで獣人の「良い子」のようで、もう。
「僕には……君たちヒトと獣人の境目が分からない……!」
慰めようとしてくれたアダムを抱き締めて、ディランは慟哭する。
止めなければならないと頭では分かっていたのに、こんがらかったまとまりのない思考の端々が口から次々溢れ出す。
「本当なら、君たちがこんな辛い目に遭わなくたっていいはずなのに。こんな、こんな……天国へ行く以外逃げ場がないなんて。アダム、なのに……君は……可哀想にっ……!」
「……ドクター……?」
突然のことに混乱し切ったアダムの声音に、ディランは返事できずにいた。
ややあって、少しだけ頭が冷えてきた頃に彼の小さな身体をそっと離して。「すまない」と、ただ項垂れるしかなかった。
不安そうにしながらもまっすぐディランを見上げていたアダムの瞳に、ほんの僅かな翳りが宿ったのはこの時からだろうか。それ以来、実験の末に同じグループの子どもたちが命を落としていくたびに翳りは広がっていった。
「ドクター。俺はまた、みんなみたいに死ねなかったんですか?」
ヒトの子どもたちの中でも類稀な免疫力を持ち、どれだけ実験を受けようがワクチンの材料とされようが回復し生き残ってきたアダム。
ある日、実験ののち昏睡から目が覚めた彼にディランはそう言われてしまった。
あの時のディランの嘆きが心に刷り込まれてしまったのだろうか。天真爛漫で何も知らないことが唯一の救いでもあったかもしれない、そんなアダムを汚してしまったと咄嗟に思った。
心臓を氷漬けにされたようなショックを覚えて涙を流すしかないディランを、アダムは「泣かないで」と我に返ったように慌てた顔で慰めてくれる。
またそうやって、賢い彼は学んでしまう。「こんなことを言うとドクターを悲しませてしまう」——気を遣いすぎる獣人の子どものように。
もう、耐えられない。
これ以上は見ていられない。
担当していたグループの中でアダムの次に長生きしていたヒトの少女が死亡した日、ディランはアダムを筆頭に残っている子どもたちを外へ逃すと決めた。
たとえ一度少人数を逃したところで、この施設や世界がヒトを利用し続ける仕組みが変わるわけではないと知っていても。
たとえ彼らが外の世界のことなど何ひとつ知らず、生き延びられるわけがないと頭の隅で理解していたとしても。
それでも何もかもを隠されたまま、この施設の中で利用され続け、目の前で死んでいって欲しくはない。
ただそれだけの浅はかで刹那的な激情で。
◆ ◆ ◆
「おはようございます、ドクター」
「……うん」
「ジェッタ、まだ眠いのは分かるけれど朝の挨拶は大事だよ。ほら」
「んにゃ……おはよ……」
「お、はよう……」
突然の再会から、はや六日。
ソファの上でまだ半分閉じたままの瞼を擦り、アダムにもたれかかった黒猫型のヒト似獣人の少女ジェッタ。彼女の肩を過ぎた黒髪を梳いてやりながら、アダムは穏やかに微笑みかけてくる。
「今日も遅くなりそうですか?」
「あ、え……と。うん。昨日、よりはマシだと思うけど……」
「戻られた時には日付が変わっていましたからね。分かりました。家のことはしておきますので、本日もご無理なく」
「……あり、がとう」
「いいえ。お役に立つと言ったでしょう?」
ヒトであるアダムと彼が連れてきたヒト似獣人のジェッタとの生活は、思いのほか奇妙なまでに平穏だった。
あの日以来、アダムは昔の話を口にしていない。仕事にかまけ何もかもを適当に放置していたディランの部屋を、ただ淡々と的確に整えてくれた。基本的な家事から仕事に関する書類や資料の整理まで、かつての優秀さはまったく損なわれていないと分からされる完璧さ。
さらに壊れたと思いそのままだったレコーダーやリモコンの類を次々と修理していくさまは、【楽園】でラジオなどの電子工作キットをあっさりと完成させ改造まで加えていた頃の彼を思わせる。
「アダム〜……ダメだ、私まだねむい……」
「だから早く寝るようにと言ったのに。いい子だから目を覚まして。ほら、まずは顔を洗っておいで」
「はぁい……」
ジェッタに優しく接している姿もそうだ。
自分だって僅かな差で年長なだけでまだ幼いにもかかわらず、グループの他のヒトの子どもたちの長兄として愛情深く振る舞っていた姿が脳裏に蘇る。
根底はあの頃のアダムのままではないか。そんな甘っちょろいことを考えるたび、再会の夜にひどく淫猥に触れられた感触が蘇って胸がざわついてしまうのだが。
「……なにか?」
「っ」
気が付けば、いつの間にか彼のことをじっと見ていたらしい。
視線と意識を一瞬、アダムは廊下のほうへと投げる。ジェッタが洗面所で水を使い出したのを確認したようで、次いでその青い目がディランを映して弧を描いた。
「ドクターもまだ目が覚めていませんか? 寝つきが悪かったのか、夢見が悪かったのか……抱き枕でもあるといいかもしれませんね」
いつの間にか伸ばされた右手の指先が、ディランの左手の甲を毛並みに逆らい下から上へとなぞっていく。
いやにゆっくりなその動き。ゾワリと毛が逆立ってしまうのを止められない。
「今夜は、そちらのほうでもお役に立ちましょうか」
その妖艶な笑みは、先程までジェッタに向けていた優しい顔とはまるで違っていた。
何も言葉が出てこなくて、呼吸すらまともにできている気がしない。ディランはただ無意味に口を開いたり閉じたりするしか出来ず——しかし突然、理解した。
再会の夜以降アダムが昔の話はおろかこういった態度を向けてこなかったのは、彼がずっとジェッタを優先していたからだ。
ジェッタはアダムに対しては明るく甘えん坊で、表情豊かなごく普通の子どもだ。だがディランに対しては、目を覚まし最初に顔を合わせてすぐ文字通り牙を剥いて威嚇してきた程には警戒を向けている。
初対面であることを抜きにしてもあまりに強いそれは、彼女がこれまでに経験した「ヒト似獣人の子どもゆえの苦労」を感じさせた。
そんな彼女を少しでも早く安心させ、この環境に慣れてもらおうと考えていたのだろうか。
アダムは初日に見せた棘を綺麗に引っ込め、この六日間ただただ穏やかにジェッタを慈しみディランに尽くしていた。彼の態度を見てジェッタもディランを敵と思わなくていいらしいと認識したのか、先ほどのように無防備な姿のまま挨拶をしてくれるまでにはなっている。
——やっぱり、アダムの本質は昔と変わっていない。きっと。
腹の中では底知れぬ怒りを宿しているに違いないのに。おそらくは重い苦しみを経験してきたのだろうヒト似獣人の少女をまず先に思いやって、自分の激情を引っ込めている。
アダムが今になってディランを探し当てて押しかけてきたのは、復讐のためだろうとディランは思っていた。しかしこうしてまずジェッタを優先している姿や、自分だけではと零していたことを思い出すに彼女の安住も目的として大きかったのかもしれない。
「……甲斐性のない方だ」
黙ったままのディランにうっすら嘲笑に近い表情を向け、アダムが首を竦めた。半ば現実逃避のように思考を別に向けて目を逸らしていた現状を思い出し、ディランは唾を飲み込む。
それと同時に、パタパタと軽い足音を響かせて朝の身支度を済ませたジェッタがリビングに飛び込んできた。
「アダムー! お顔も洗ったし歯磨きもしたし、お着替えもしたよ! えらいでしょ!」
「おかえり、ジェッタ。よくできました」
「えへへ!」
とっくにディランに触れていた手を引っ込めていたアダムは、それとは反対の手でジェッタの頭を優しく撫でる。色気と負の感情をない混ぜにした寸前の態度など微塵も表に出さない。
その使い分けこそ、間違いなく自分だけが彼に憎まれている証なのだ。
ディランはアダムからの誘惑めいた視線が逸れたことに安堵しつつ、同時にゴロリと硬い石が臓腑の中を転がるような悲しみも覚えていた。そんな権利などないはずなのに。
「……行ってくるよ」
のろのろと支度を整え、やっとのことでそれだけ搾り出して、ディランはリビングを後にする。
「いってらっしゃーい」
「お気を付けて、ドクター」
背中に投げかけられる二人ぶんの穏やかな声。
玄関へ向かう寸前に肩越しに少しだけ振り返ってみれば、ベーグルに齧り付くジェッタの傍らでアダムがじっとこちらを見つめていたのと目が合う。
途端にうっすらと娼婦の笑みを浮かべる彼に首筋の毛が逆立つ気配を覚え、ディランは慌てて扉を閉めた。
◆ ◆ ◆
帰宅は案の定、深夜となってしまった。
あと少しすれば日付が変わる。左手首の腕時計に視線を落とし、ディランはなんとも言えない気持ちで部屋の前に立つ。
本当ならもっと早く帰ってもよかったはずだった。「マイヤーズ先生、まだ残ってらしたんですか?」と看護師や同僚たちに言われるたびに明日休みだから今日のうちに色々やっつけておきたくて、と適当に誤魔化して病院に残り続けてしまったディラン。あまりにもあからさまなことをしているな、と苦々しく思う。
今だって、扉を開ける手がなかなか動いてくれない。こうしてウダウダとしていても仕方ないのに。
……本当にこんな自分が嫌になる。
深く重く溜息を吐き、ディランは鍵を開けてドアノブを回した。
「おかえりなさい」
最低限に照明を絞ったリビングの中、アダムはひとりソファに座っていた。
二人がやってきた夜、ひとまずと倉庫状態だった空き部屋をあてがった。寝室として軽く整え直したその部屋で、ジェッタはもう眠りについているのだろう。
いつもならアダムもそこにいて、ディランが帰宅すると薄く扉を開けて声をかけるだけなのだが——今夜は、違っていた。
「やっぱり遅かったですね。獣人の病院がどうなっているのか、俺には想像するしかできませんが……お忙しい時期なんでしょうか?」
「い……いや、今はそこまででも……」
馬鹿正直に言うことはなかったと思った時には手遅れだった。
「では、わざと帰宅を遅らせたと」
うっすらと無機質な笑みを貼り付け、アダムが立ち上がる。
喉奥に息を詰まらせたディランは何か言葉を返そうと足掻くが、それより早くアダムは「責めてませんよ」と軽く両手を挙げた。
「無理もないことです。帰宅すれば俺と顔を合わせなければならないのですから、嫌にもなりますよね」
「……っ、アダム……」
「あなたに負担をかけているのは分かっています。いろんな意味で。だからこそ」
気付けば、いつのまにかアダムはディランの目の前まで近付いてきていた。
その長い睫毛に縁取られた碧眼いっぱいに映る自分の姿。あっと思う間もなく細い腕が首に絡み、擦り寄るようにアダムが背伸びして身を寄せてきた。
「俺をお好きに使ってください、ドクター」
「——ッ!」
囁き、首元をペロリと舌先で舐められる。途端に背筋が凍るのと身体の中が熱くなるのとが同時にせめぎ合った。
ディランは雄雌問わずヒトを性処理に使ったことなど一度もない。だからアダムの経歴を察しても、ただ悲しくなっただけだったのに。
軽く煽られた途端に自分の身に湧き起こった熱に、誰あろうディラン自身が一番戸惑っていた。
そんなディランの様子に当然気付いているらしいアダムは、首元に縋りついたまま薄く笑う。
「……以前、俺を飼育していた獣人が言っていましたよ。ヒトを蹂躙したくなるのは獣人の本能みたいなものなのだと」
彼の口から出た飼育という単語にまた何とも言えず腹の奥が重く沈む。だがそれ以上に「獣人の本能」というフレーズがしっくりときてしまったのがディランは心底嫌だった。
ヒトの不正飼育はその大半が性処理を主にした愛玩目的だ。
長らく実験目的としてヒトを飼育する【楽園】にいたディランには何故そんなことが起こるのか分からなかったが、こうして我が身に起こると痛感する。
ヒトは獣人に比べると身体的にははるかに弱々しい。しかし賢く、個体によっては教えれば対等に会話もできるようになる。ある程度コミュニケーションが取れ、身体の仕組みも近しく、且つ圧倒的に自分よりも弱く支配できてしまう存在。
アダムのように飛び抜けて危険なまでに賢い個体であっても、それは変わらない。首に絡んでいるこの腕を小枝のごとくへし折るくらい、ディランにも簡単にできてしまう。
そう思うと余計に熱がざわつくのも事実で、思わず吐きそうになった。
「本能なのだから仕方のないことですよ。神様とやらいわく、悪いことかもしれませんが」
ディランの口元を指先でゆっくりとなぞるアダムが、美しさも相まってまるで悪魔のように見えた。
情けないことに相変わらず返事ができないでいるディランを嘲笑うかのごとく、同じ指先で今度は自身の唇に触れて。
「……その気が起きないなら、眠れるように昔話でもしましょうか」
「え……?」
「あなたが、俺たちを捨てた後の話ですよ」
ドクン、と心臓が派手な音を立てて大きく跳ねた。
——【楽園】からアダムたちを逃したあと、恐ろしくて外の様子を伺うこともできなかったディランは彼らがどうなったのか今の今まで当然知らない。
想像は、していた。こうして五年も経ってから生きてアダムと再会したのが奇跡であるくらいには、外界に出したヒトが生きていけないだろうことは気付いていたから。
そもそも奇跡的な耐性を持っていたアダム以外、皆して既に弱り切っていた子どもたちだった。あの頃は目の前の苦しみしか見えていなくて、そんなことすら省みることはできなかったが——
「扉を閉められてしまったので……ここに戻ってはいけない、戻れないということだけ理解しました。吹雪に追い立てられるようにして、みんなでわけも分からず走って……まず、ナアマが死にました。躓いて、崖から落ちて。あの子は腕を切断されていましたから、どこにも掴まれなかった」
「っ……!」
「次にエノクが死にました。あの子はいろんなところが壊死して脆くなっていましたよね。寒さのせいで……少しずつ、動かなくなりましたよ」
「やめてくれ……アダム、もう……」
「それから同じくらいに、カインが。あの子も肌や粘膜がボロボロだった。口の中まで真っ赤で、雪を溶かした水も飲めなくて……。一瞬で死んでしまったナアマはまだ幸せだったかもしれないと、思ってしまいました」
「……アダムっ……!」
「最後に、一番小さかったディナ。——振り返ったら、大きな虫に頭を齧られて死んでいました。俺が、手を引いて歩いていたのに」
あれはスプークでしたね、と視線を伏せてアダムが零す。
かつてヒト社会だった頃に獣人の先祖の一部が害獣としてヒトを襲っていたように、獣人社会では巨大に進化した昆虫たちの一部がそのポジションとなっている。
スプークと呼ばれる巨大コオロギはその代表格だ。食欲旺盛で獰猛で、動くものならば何でも食べ物とみなして襲いかかってくる。【楽園】の周辺ではあまり見かけなかったが、少し離れた針葉樹林帯には群れを作っていたという話を聞いたことがあった。
彼らはそこまで逃げたのだろう。そうして、そこで。
「……直後に、たまたま通りかかった猟師の獣人に助けられました。俺をヒト似獣人の子どもだと思ったようです」
伏せた目はそのままに、ぴたりとディランに身を寄せた状態を保ってアダムは続ける。
「よく見ればすぐに違うと気付いたでしょうに、あの方は俺をあくまでヒト似獣人の子どもとして扱っていました。しばらく、お世話になって……いろんなことを教えてもらって。けれど間もなく亡くなりました。かなりの高齢だったと思います」
過酷な外界でたまたまアダムがひとり生き残ることができたのは、その高齢の猟師のおかげだったのだ。
ディランは乱れる呼吸を必死に落ち着けて、頭の中で彼の話をなんとか整理する。
「……じゃあ、君は……そのあとは……」
「それも聞きたいですか? ……もう、ご理解いただけていたものとばかり」
「ッ」
「それはもう可愛がってもらいましたよ。いろんな獣人に。転々と。最終的に逃げ出して、今に至っています」
怖いほど穏やかに微笑むアダム。青い瞳の奥に、あの夜の吹雪が見えるのは錯覚だろうか。
言葉の節々に籠る意味が分からないほど愚鈍ではないし、もちろんとっくに気付いていた。なのに。苦し紛れに口を開いたとはいえ、何故質問を重ねるような真似をしてしまったのだろう。
筆舌に尽くしがたい地獄を味わってなお、生きてここにアダムはやってきた。
改めて、その意味に思考を巡らせる。やはりそれは、彼が「そう」なってしまう原因を作った自分への復讐以外にないだろう。今すぐ刃物や銃を突きつけられても仕方のない仕打ちをしたのだから。
「君は……僕を、殺しにきたのか?」
ポロリと落ちた言葉に、アダムは心底不思議そうな顔をした。一瞬とはいえ、それは幼い頃と同じ邪気のない顔。
あまりに意外な反応で、ディランも呆気に取られてしまう。
「——まさか。言ったでしょう? あなたのお役に立つために来たんです」
「だっ……て、僕は、君を……。そんな僕に、君が尽くす理由なんて何もないはずだ……っ」
「ありますよ」
首筋に擦り寄られ絶句するディランを見上げて、アダムは言う。
「俺にはあなたしかいない。あなたしか頼れない。それも最初の日に言ったでしょう?」
「……だからって……なんで、……っ」
なんで、今になって。
言いかけて、今度は言葉にする前に気付いた。アダムが連れてきたヒト似獣人の少女。あの子の安住のためなのではないかと、朝に思い至ったばかりではないか。
恨みも勿論あるだろう。いま語った死んだ仲間たちの話を、その原因となったディランに聞かせたくて仕方なかったことだろう。だが六日間ずっとそれを押さえ付け、ジェッタが新しい環境に慣れることを優先し続けていたアダムなら。
「俺は何も持っていません。今も昔も、獣人の——あなたのお役に立てるのは、この身体ひとつです」
娼婦の笑みの中、昔と変わらぬ深く青い海の瞳にどこか必死な色を感じるのは気のせいではないのかもしれないと思った。
ジェッタをここに住まわせて貰うため、とは彼は別に口に出してはいない。ずっと酷い環境にいたと今やもう理解しているのに、獣人に対しての恨み言ひとつすらも。それもひどくアダムらしかった。彼は変わらずずっと、優しく献身的なヒトの子だ。
そんな彼が、自分のことだけはきっと深く恨んでいる。ただひとり、利用していい相手と判断して誘惑している。
これしかできないヒトの身だからこそ、必死で——ディランに罪を犯させようとしている。
「それとも、まだ昔話のほうが聞きたいですか? この先は」
「アダム」
遮って、名前を呼ぶ。その声音が妙に落ち着いていたからなのか、アダムがキョトンと目を瞬かせた。
またも純真無垢な賢いだけのヒトだったあの頃と同じ顔に見えて一瞬躊躇ったが、もう彼は全てを知っている。あの頃の【楽園の子ども】ではない。
背丈も随分と伸びている。おそらくヒトの青年期の平均値よりも高いほうだろう。しかし獣人の中でもかなり大型の体躯を持つディランからすれば、小さくて脆弱なことに変わりはない。薄い肩に手を置くと、アダムの目線が静かにそちらへ流れた。
「もう、いいよ。分かったから」
「何をですか」
「……分かったから……」
きちんと言葉にして返事など出来そうもなかった。
肩に置いた手をゆっくりと腰へ滑らせて、引き寄せることで答えにする。刹那アダムが唇を噛んだように見えたが、その意味は分からない。
これは贖罪だ。
元々天国の顔をした地獄の中に囲っておきながら、いっときの激情に任せて更なる地獄の最下層へと彼を突き落としてしまった自分にできるただひとつ。
アダムが、復讐と大切な者への献身を兼ねてそこから手招きするのなら。
彼が望むまま同じ場所まで堕ちてやるくらいしか、ディランに償う道はない。
「……嬉しいです、ドクター」
青い瞳が緩慢に弧を描く。
口元にそっと押し当てられた唇の柔らかさ、抱き寄せた腰の細さが、一度落ち着きかけていた熱をまた燻らせた。
◆ ◆ ◆
一章前半でした。漫画で描いてる正規ルートをご存知の方にとってはめちゃくちゃネタバレ回。「楽園」はこういうとこで、ディランはそういう立ち位置でしたという話。
このあとちょっと進むとR18パートになるんですが、鍵なしブログでそういうの載せるの大丈夫なのか…?とちょっと心配もあるのでこの先を後悔する時はアルファポリスかムーンライトノベルズにまとめて載せ直すと思います。たぶん。
その際は序章やこの回も多少加筆修正で描写が増えてたりするかも。
(2024.4.24追記)
R18パートに入る直前までを追加しました。
このあと3,000文字くらい?R18パートが入って一章は終わりです。
GW以内にはいい加減タイトル決めて、まずはアルファポリスあたりにちゃんと載っけ直したい!
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました!
↓のウェーブボックス、なんかぽちぽちしてやって頂けましたら喜びます🙌